カワイーヌ・ティトの北欧生活

北欧で暮らすハバニーズ、ティトと飼い主Matte&Husseの日常

私も母も、変わった。

今年の春で北スウェーデンでの生活が10年目に突入しました。

振り返るとあっと言う間ですが、東京に住んでいた頃と比べると時間がとてものんびり流れていく感覚があり、ついでに私の重量も増えた関係で実際に動きはスローペース。ってそれはどうでもよく、子ども時代の10年に比べて最近のそれはなんとあっさり過ぎていくものかと驚愕しております。

 

最後に日本を訪れたのは2019年の1月。それからコロナウィルスのパンデミック、ロシアのウクライナ侵攻と、世界情勢はみるみるうちに様変わりしました。

現在もロシア上空は飛行出来ず、日本に帰るには迂回せねばなりませんが、有り難い事に出入国は楽になり、世界中でも旅行を楽しむ人が増えてきました。

私も今年の秋頃、Husseと一緒に日本へ一時帰国しようかと計画を練り始めました。まだはっきりしませんが、Husseの休みが調整出来次第チケットを手配しようと思っており、それが実現すればおよそ5年振りの日本帰国となります。

 

この4年半の間、私のスウェーデンでの生活に大きな変化はありませんが、日本にいる母の生活は全く別のものになりました。

現在73歳の母は、2年前に認知症の診断を受けました。

 

 

3年前、ちょうどコロナウィルスが深刻になり、各国でロックダウンが行なわれていたとき。母は私の祖母(自身の母)の家に住み込みで、介護をしていました。母は以前ヘルパーの仕事をしていたので、介護についての知識があったのですが、自分の母親を面倒見るのはまた勝手が違ったようです。私の元へ頻繁にかかってくる電話越しには、ストレスを溜めている様子がみてとれたので、祖母には施設で生活してもらってもいいのでは?と私は提案していました。実際、母の兄弟もそんなに頑張らなくていいと母に伝えていましたが、母は祖母が施設で暮らすのは気の毒だ、と自分の辛さには蓋をして生活していました。

母は今まで、私が選んだ進路に反対した事はほぼありませんでした。スウェーデンに移住する時も100%の笑顔で送り出してくれたわけではありませんが、自分の気持ちを私に押し付けることなく、私の気持ちを尊重してくれました。

そんな母が例の3年前、祖母の介護で辛い時に、いつ帰国するのか、そのままスウェーデンで暮らし続けるのかと私に何度も聞いてきました。今は帰れないし、先の事はわからないけど今のところ将来も住み続けると伝えると、驚く返事が返ってきました。

あなたは親不孝者だ、と。

母も歳をとって寂しいのかしら、とは思いましたが、今までの母からは出てこない言葉だったので、悲しさや怒りよりも、え?とビックリしたのを覚えています。

 

この頃から母は、何の問題もなく使っていた言葉が咄嗟に出てこなくなったり、電話越しに涙声になることがあったりと、物忘れや今までとは違う感情表現に私は違和感を覚えました。家族は全く気付いていないようでしたが、私はこの時期に母に一度病院へ行ってみたら、と提案しました。

すると、母もわかっていたようで、先日一人で行ってきたと告白しました。

MRIを撮ってきたけどなんともなく、物忘れも年相応だとお医者さんに言われたとの事。

それを聞いて私はホッとしましたが、その半年後、ATMの使い方がわからなくなったという話を聞いて、あぁもうこれは...と天を仰ぎました。恐らく、介護のストレスが大きな原因だと思われます(祖母が悪いわけでは決してなく)。

実家は完全2世帯住宅で兄家族と両親が住んでいます。祖母がショートステイをする時、母は実家に帰宅していました。兄家族、特に兄はなかなか受け入れる事ができず、老人性の鬱だと言い張っていました。そこから紆余曲折あり、兄も徐々に納得して母を病院に連れて行き、正式にアルツハイマー型認知症という診断を受けました。それがちょうど2年前です。祖母には施設に引っ越してもらって、母は完全に実家へと帰ってきました。母はしばらくの間、祖母の話題が出るだけで涙ぐみ、申し訳ないと繰り返していましたが、自分でももう限界なのは理解しているようでした。

 

最初に母が自ら診察してもらった時は、初期も初期で、MRIにも反映されないくらいの脳の変化だったようです。

 

認知症だと確信していても、診断を改めて聞いた後に私はとても落ち込みました。

 

まだまだ母と話したかった。

母の美味しい料理が食べたかった。

一緒に旅行に行きたかった。

スウェーデンに来て欲しかった。

お母さん、やりたい事沢山あったでしょう?

かなしいよね...

 

そんな事を想いながら、丸2日半、ティトの散歩以外はずっとベッドの中でしくしく一人で泣いていました。

 

でも待てよ...?

2日半が経過して、私はふと考えました。

よく考えてみたらまだ母とは話ができるし、今まで散々母の料理を食べてきたし、なんならお腹いっぱいとか言って残してきたし、一緒に旅行しようなんて話一度も出てきた事ないし、スウェーデンは遠いからイヤって言ってたし...はて?何で悲しいんだ??

 

それに気付いた途端、不思議なほど全く悲しくなくなりました。

やりたい事を後回しにしてきた母の事も私はよく知っています。パッチワークが好きだった母に、「縫い物をするぞ!って無理矢理にでも時間を作らないと、いつまで経っても出来ないよ」と伝えた事がありますが、それよりもやる事がある、と耳を傾けませんでした。母にとっての優先順位はそういったものでした。そのような選択をしてきたのは母で、やりたい事ができなかったねと可哀想がるのはちょっと違うな、とも気付きました。

 

自分はもしかしたら認知症かもしれない、と考えるのはとてつもなく不安だったことでしょう。3年前、忘れていく物事や今までのように頭が回らない恐怖を、一人で抱え込んでいた時期が母にとっては一番辛い日々だったと思います。その頃の母の気持ちを思うと心が痛み、もっと母の心に踏み込んで話を聞き、寄り添ってあげればよかったと後悔します。でもまぁプライドの高い母はそれでも強がって、弱音を吐かなかったかもしれませんが。

 

現在、母は色々なことを忘れています。

私の父が自分の夫だ、ということもよくわかっていませんし、なんなら旦那は死んだ、とこの間言っていました(落ち込んでしまうので父には内緒ですが)。私が誰だかわかる?と聞いたらわからない、と。Matteだよーと言ったら、あんたがMatteかい!ですって。

生まれた時に足が悪かった女の子覚えてる?と訊ねると、あーそんな子がいたようないないような....とモゴモゴしていたので、それ私だよーと伝えると、あんたかい!ですって。

コントです。会話がドリフ過ぎて、私も母もお腹がよじれる程笑っています。母は私が笑っているから意味もわからずつられて笑っているだけかもしれませんが、涙でちゃうーと言いながらケラケラ笑っています。

 

まだ私が日本に暮らしていた頃、兄家族は両親の老後の面倒を見ると宣言しました。その代わりに、多額の援助を受けていたことを私は後に知るのですが、今となっては何も引け目を感じる事なく兄家族に母をお願いする事ができています。もちろん色々と思う事はありますが、母にとっては今がとても幸せなんじゃないか…?と思ったりします。

今の母は老後の不安を抱えることもなく、死への恐怖もほぼなく、面倒くさいお金の計算をする必要もなく、今を生きていて、たまに私と大声で笑っています。

5年前の母とはある意味違う母ですが、私には母との思い出がたくさんあり、今も母と楽しい時間を過ごす事が出来ているのは、とても有り難く幸せだと感じます。

 

以前、私はあまり幸せを実感できない性格でした。家族や大切な人達が病気だったり辛い状況だと、そこから自分を切り離す事が出来ず、心から幸せだと言える日はとても数少なかったように思います。

 

海外生活がそうさせたのか、歳を重ねたからそうなったのかわかりませんが、今ではただシンプルに自分の幸せを楽しめるようになりました。私が頑張って何か改善するなら努力も惜しみませんが、頑張っても変わらない事はもうそれ以上何もしないし考えない。それはそれ、これはこれ、と。

 

これからの毎日もあっという間に過去となり、気付けばきっと移住20年目とかになっているのでしょう。未来の自分の為にも母との楽しい記憶をこれからも作っていき、後悔しないように暮らしていきたいと思います。

会える日がとても楽しみです。

 

今週のお題「変わった」